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試訳「マラーズギルドの会戦」③

試訳 「マラーズギルドの会戦」③


試訳「マラーズギルドの会戦」②の続きです。マラーズギルド戦史は今回までです。
よりにもよってビザンツ滅亡の日にやるのかよ……というツッコミもあるかと思いますが、せっかくなので今日投稿致します。
今回の翻訳の範囲はフランス国立図書館写本176ページ6行目から177ページ17行目までです。

翻訳


13.(ビザンツ)皇帝は捕虜をスルターンの目の前へ連れて行き、鎖で繋いだ。彼と共にハヤブサと猟犬の目の前で立たせた。
14.ビザンツ人と共に、3000頭の子牛と貴重品と投石機を運んで、その投石機は合計8配当であり、100頭(ずつ)の子牛に運ばせた。そしてそこで1200人の男子にそれを展開させたが、その限界の重量はキンタール(注1)と多くのラトル(注2)であった。兵士は彼らの命じるところの財貨から運んだ。
15.必需品と武器の価値は果てまで落ち、12個の兜を売って6分の1ディナールになるまでとなった。ヒラートの包囲なくしてビザンツ兵から(人々を)保護することはなかった。敗戦したとき、彼らの言語(ギリシア語)でジャーフィリーン地方から旅立つと、ムスリムたちは彼らについていき、彼らの一部を掴んだ。彼らのうちの先頭のものは、他のものの方を振り向くことはなかった。
16.語られた条約の内容は驚くべきものであった。サアドゥッダウラ・ガウハルアインが、ニザームルムルクに贈ったマムルークを所有していたが、これは彼(ニザームルムルク)が彼(ガウハルアイン)に(マムルーク)を返し、(ガウハルアイン)は(マムルーク)に彼(ニザームルムルク)を賞賛の歌を歌わせてはじめた。ニザームルムルクは言った。「そもそもこのマムルークは何者だというのだ!ビザンツ皇帝が捕虜になったという話を私の耳で聞いたぞ!」(その発言は)彼を嘲笑するようでもあった。
17.そして、この対談はこの事件が起きたことを忘れさせた。そして、ビザンツ皇帝がこのゴラームの命令によって後退するということで合意した。そこでスルターンは彼(ゴラーム)に名誉を授与した。また彼(ゴラーム)は厚遇に最善を尽くした。彼は彼の提案と要求に合わせて判決を下し、ガズナ(注3)の(彼を賞賛する)しるし(shārat)を乞うた。そして彼にそれを書くように命じた。
18.そして、スルターンはアーザルバイジャーンに旅し、皇帝は自らの枷で繋がれていた。スルターンは皇帝を彼の目の前まで連れて行き、彼の攻撃のきっかけと、この命令によって彼自身と彼の兵とのあてこすりについて尋ねた。彼は彼がアレッポを除いて返さなかったと伝えた(?)。これら全ては上記の理由で、マフムードがそれについての原因と動機であった(?)。そして、彼は「もし私を打倒したならば、この件について何をしようと決心したのか私に真実を伝えよ。」と言った。彼は「私は貴方をアッサージュール(注4)の犬とみなしていただろう」と言った。
19.スルターンは「貴方に行うことで貴方が賢明とみなすことは何であるか」と言った。彼は「結末を見よ、私の意志が支配して、貴方自身を裏切るだろう!」そしてスルタンの犬は奴隷となり、(スルターンは)彼に恵んだ。そして自由になり、彼を敬愛した。そして、後で彼に条件を与えた。それは、イスラーム地域の事物に干渉してはいけないというものと、ムスリムの捕虜全員を解放することであった。彼(ビザンツ皇帝)を彼の国(ビザンツ)へ送り出し、彼に近侍する兵も彼に同行させた(注5)。
20.ディウジャーニス(ディオゲネス)がクスタンティーニーヤ(コンスタンティノープル)へと去ったとき、彼ら(ビザンツ人)は彼を皇帝から解任した。このため、彼の望むようには終わらなかった。返事として彼は目をつぶされた。程なくして彼は死んだ。彼はこれより前にイスラームに於いて捕虜になることはなかったと伝える。
21.マフムード・イブン・ナスル・イブン・サーリフに関しては、スルターンがアレッポから去った後に彼の兵と共にやって来て、バヌー・キラーブ族と(バヌー・)スライマーン族と、この年のシャアバーン月に共にいた。彼らはバアルベック・カースディーン・ディマシュク(ダマスクス)とその国の近郊に野営した。その時、宿営地でイブン・ムンザウィン・アル・キターミーはスルターンが先導するのに従ってそこへ行き、マフムードはすることを明らかにするために留まった。

注釈


注1.重量の単位
注2.重量の単位
注3. ベイルート版注: ガズナとは素晴らしき街で、広大なるホラーサーンの端である。ホラーサーンとインドの飛び出たところである『ヤークート地理辞典』
注4. 犬の首に繋いでおく鎖
注5. ベイルート版注:彼の国へ送り、彼とともに兵士らを送り、安全な場所へと護送した。スルターンは1ファルサフ(距離の単位)程付き添った。『完史』

解説


この史料は「アレッポに軸を置いて」マラーズギルドの戦いを観ているので、21段落目には「マフムード・イブン・ナスル・イブン・サーリフ」というこの当時のアレッポを治めたミルダース朝の君主の動向が記されている。
マラーズギルドの戦いの前にアレッポを治めていたミルダース朝の君主のマフムードは元々ファーティマ朝カリフに忠誠を誓っていたが、大セルジューク朝スルターンのアルプ・アルスラーンの興隆を知るとスンナ派に忠誠を誓うようになった。アルプ・アルスラーンがユーフラテス川を渡る際にマフムードと和平を結ぼうとしたが、拒絶された。アルプ・アルスラーンによる一ヶ月のアレッポ包囲ののち、マフムードとその母はアルプ・アルスラーンを訪ねて和平を結んだ。(Hillenbrand 2007 pp.9-10.)

参考文献


Hillenbrand, C. (2007). Turkish Myth and Muslim Symbol: The Battle of Manzikert: The Battle of Manzikert. Edinburgh University Press.
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