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「アッティーヤ・イブン・サーリフの消息」

概要


今回の記事はマラーズギルドの会戦の続きです。今回は写本のp.177 l. 17からp.178 l.12まで。タイトルと段落番号はベイルート版に依拠する。

翻訳


1.彼(マフムード)の叔父であるアッティーヤ・イブン・サーリフはルームの庇護下にいたが、彼の甥のマフムードに援護をもとめた。エジプトを目指したのち、彼らからは何も獲得しなかった。アッティーヤはアンティオキアのdwqs(ドゥクス)とルーム(ビザンツ)の兵とともとに出発し、彼らは彼(アッティーヤ)と共にエジプトの欠けたるところを襲撃し、その一部分を焼き払った。また、彼らは彼の下にいる人を殺戮した。
2.マフムードに知らせが届いた。彼はバアルベックの地にいたが、アレッポに戻った。スライマーニーはスルタン・アルプ・アルスラーンに追いつくために向かった。ルーム(ビザンツ)の戦士たちはシャームに到達した。マフムードはファリスティーン(パレスティナ)において諸アミールを管轄するものと共に、『もしトルコ人なら落ち着くであろう』と懇願した。彼らは、甥のアルマリク・イブン・ハーンとアトスィズ・イブン・ウヴァクと彼の兄弟たちである。彼らは当初、ファリスティーンの地へトルコ人から現れていた。その地(ファリスティーン)を征服し、その地に留まり、マフムードを攻撃した。そしてルーム(ビザンツ)兵を分けて留まった。
3.マフムードの叔父アッティーヤはクスタンティーニーヤ(コンスタンティノープル)へ入った。そして屋根から落ち、その下で眠るようになった。彼は酔っていた。彼はヒジュラ暦464年に没した(ベイルート版註1)。マフムードはラフバ(現レバノン北部)に向かい、その地を獲得した。彼(アッティーヤ)はアレッポへ搬送されて、アレッポの楽園門(bāb al-jinān 筆者訳注1)の西に埋葬された。マシュハド(筆者訳注2)にて、彼の母は穴の庭園の目の前で追い払われ、彼の甥のマフムードは彼のために祈った。そして、トルコ人たちはマフムードが金と馬を彼ら(トルコ人ら)に運搬したのち、戻った。(p.177 l.12)

註釈


ベイルート版註1: イブン・アルアスィールはアッティーヤはヒジュラ暦465年に没していると記録している。「アッティーヤはルーム(ビザンツ帝国)に行き、クスタンティーニーヤでヒジュラ暦465年に没した」このようにアズィーミーの『アレッポ史』に記載されている。
筆者訳註1: アレッポの門の一つ。下図(谷口1990 p.297より引用)の5。
筆者訳註2: 楽園門の近く (Le Strange 1890 p.365)

参考文献


谷口淳一(1990)「十一世紀のハラブにおけるカルアとマディーナ」『東洋史研究』49-2
Guy Le Strange (1890) Palestine under the Moslems London
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