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トレビゾンド帝国建国記念投稿

今日はアレクシオス1世メガス・コムネノスがトレビゾンド帝国を建国したとされる日*である。トレビゾンド帝国は第四回十字軍でコンスタンティノープルが陥落した時期とほぼ同時期に建国されたビザンツ系の政権で、ルーム・セルジューク朝やニカイア帝国などとの戦いに敗れたため、コンスタンティノープルを奪還できなかった政権である。ここでは、トレビゾンド帝国はどのようにして建国されたのかと、トレビゾンドに至るまでのアレクシオスの行動についての研究の紹介し、簡単にまとめておく。
ビザンツ皇帝のアンドロニコス1世コムネノスが1185年の民衆反乱によって暗殺されると、その息子であるマヌエル・コムネノスもその際に目を潰され、その傷が元で死んだ。このマヌエルの子の兄弟こそが後のトレビゾンド皇帝であるアレクシオス一世とその弟のダヴィドである。アレクシオスは1182年生まれだが、ダヴィドの生年については知られていない。この二人は双子であるという記述がなく、一個か二個下だと推測されている。アレクシオスとダヴィドは正統な皇位継承者であったため、コンスタンティノープルにこのまま居続けるのは危険だった。1185年から1204年までの間のこの二人の同時代史料は何一つ残っていない。しかし、彼らは1204年にはグルジアのタマラの宮殿にいたことは史料に記載がある。この間のアレクシオスとダヴィドの動向についてはこれまで3種類の説が検討されてきた。
①1185年にアンドロニコス1世が殺された際に二人が親戚**のグルジアのタマラ女王の許へ安全に護送され、グルジアで教育を受け、1204年にグルジアからトレビゾンドに入り帝位についたとする説(ファルメライヤーなどが提唱)
②幼いアレクシオスとダヴィドはコンスタンティノープルに隠されて、1204年にコンスタンティノープルが落ちる前にアレクシオスとダヴィドはタマラのいるグルジアまで逃げたという説(ジョージ・フィンリーなどが提唱)
③アレクシオスはアンゲロス朝の皇帝の支配下のコルキス(トレビゾンド市)の統治者で称号は皇帝ではなくドゥクスあったが、コンスタンティノープルが1204年にラテン人に捕らえられると、公国の中の最高の統治者であると宣言することを決めたという説(デュカンジュやギボンなどが提唱)
だがこれは史料が絶望的に少なかったときに主張されたものであるので注意が必要である。
このうち、ヴァシリエフの研究ではこれらのうちの最も有力なのは①としている。実際彼によると、同時代史料は欠如しているとは言え、より後の史料(ラオニコス・カルココンデュレス)には簡略的ではあるものの一応この流れに近いものを記録している。以下にカルココンデュレスの歴史書の訳を掲載する。
「実に、コルキス(トレビゾンド)の皇帝たちは以前ビザンツ皇帝を出したコムネノス家だと言われている。帝国の力が落ちたとき、皇帝の息子のイサキオスは父が民衆の憎悪によって殺されると、コルキスの地とトレビゾンドに向かって逃げた。そこに着くと、地元の人によってコルキスの権威のもとに落ち着き、コルキスの玉座をトレビゾンドの上に移した。また、この統治はこの時から私が経験するまで続き、ギリシア人を起源としつつ、またその慣習もギリシアと同じような様子で、発する言葉もギリシア語である。」
この史料ではトレビゾンドの初代皇帝がアレクシオスではなくイサキオスになっているという点と皇帝の息子ではなく孫であるという点では間違っているが、アンドロニコスの死後すぐにアレクシオスとダヴィドがビザンツ帝国を出たということがわかる。
では、グルジアはなぜトレビゾンド建国を助けたのであろうか。これについて、グルジアの無名の史家は、タマラがアトス山などのエーゲ海と地中海に面したいくつかの修道院に対して送った多額の寄付をビザンツ皇帝のアレクシオス3世に没収されたことに対して復讐するためにトレビゾンド帝国の建国を助けたと記録している。
これらのことから、トレビゾンドを征服し建国したアレクシオス1世は第四回十字軍のときにコンスタンティノープルを出たわけではないことがわかる。
 * Shukurov(2005)
**タマラとアレクシオスの縁戚関係についてははっきりとしていないことが多く、ファルメライヤーによれば、パナレトスによる年代記にはタマラを「アレクシオスの父方のおば」であると記述している。これをそのまま文字通り受け取ってしまえば、結果的にコムネノス家がグルジア系になってしまう。クニクによれば、グルジアの年代記によればタマラには一人妹がいて、彼女こそアンドロニコス一世の子マヌエルの妻なのではないかと提唱されている。
参考文献
根津由喜夫『図説ビザンツ帝国 刻印された千年の記憶』(河出書房新社、2011年)
Chalkokondylēs, Laonikos. The Histories: Books 6-10. 2014.
Shukurov, Rustam. "The enigma of David Grand Komnenos." Mésogeios 12 (2001): 125-36.
Shukurov, Rustam. "Trebizond and the Seljuks (1204-1299)." Mésogeios. Revue trimestrielle d'études méditerranéennes, Special edition “The Saljuqs”/Ed. G. Leiser 25 (2005): 26.
Vasiliev, Alexander Alexandrovich. "The foundation of the Empire of Trebizond (1204-1222)." Speculum 11.1 (1936): 3-37.
追記(201812/21)
追記:本ブログ投稿時にはルスタム・シュクロフ氏のTrebizond and Seljuks(1204-1299)に、
1204年の4月、恐らくだが4月23日(聖ゲオルギオスの日)に、ビザンツ皇帝アンドロニコス1世の孫のうち、兄の方のアレクシオス1世メガス・コムネノスがトレビゾンドを征服し、弟の方のダヴィドはすぐにビテュニア東端までのパフラゴニアを征服した。」(Shukurov 2005 p.1)

という記述から建国記念日とみなしてこの日に投稿した。この時点ではこれ以上の詳細な記述を見つけることができなかった。しかしながら、先日、ロシアのビザンツ史家にしてトレビゾンド―北イタリア関係史の大家のセルゲイ・カルポフ氏のNew Archival Discoveries of Documents Concerning the Empire of Trebizondにさらなる詳細な記載があるのを見つけた。近年のトレビゾンド帝国史の研究動向についての解説の中で、印璽や貨幣学の分野における研究成果として、1963年に発見された印璽文書(bull)について、図像の紹介こそあれど、まだ確かな解釈がなされていないと批判している。この印璽文書にはギリシア文字でのAlexios ho KomnenosとA(gios) Georgiosと、その反対側に「聖なる復活he hagia anastasis(=イースター)」と書いてあり、聖ゲオルギオスに手を引かれている、先のとがった兜をまとったストラテーゴスの像が書かれていた。これについてカルポフは、アレクシオスによる1204年の軍事遠征およびトレビゾンドの征服の反映だと見なしている。
ミカエル・パナレトスの年代記には「6712年(1204年)第7インディクティオの4月(Origimal-Fragmente 1844 p.15)」と記述している。少なくともカルポフは1204年のイースターが4月25日であることから、4月23日にトレビゾンド市を征服し、4月25日に皇帝であると宣言したのではないかと推測している。
そのため、正確に4月23日と4月25日という記録が残っているわけではないそうであることを、ここにお詫び申し上げたい。
寧ろ、建国記念日としては皇帝を称したとカルポフの推測する4月25日のほうがより適切かもしれない。
参考文献
Sergei Karpov.New Archival Discoveries of Documents Concerning the Empire of Trebizond.Gamer.I.(2012)pp.75-76
Jacob P.Fallmerayer Original-Fragmente,Chriniken,Inschriften und anderes Materiale zur Geschichte des Kaiserthums Trapezunt.2.1844.p.15
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