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ビザンツ帝国滅亡時のトレビゾンド帝国について

今日はコンスタンティノープルがオスマン帝国に征服されてビザンツが滅亡した日である。そのとき、トレビゾンド帝国はどう行動していたのであろうか。当ブログでは、このときのトレビゾンド帝国の政治外交についてまとめる。
ビザンツ帝国がオスマン朝の標的になっていたように、トレビゾンドもまた、15世紀にオスマン帝国の標的となっていた(1)。この頃、トレビゾンド帝国はヨハネス4世が統治していた。オスマン帝国のムラト2世は1443年にトレビゾンドを攻撃したが、悪天候のため包囲戦は妨害された。そののち1448年にビザンツ帝国の年代記作家のスフランツェスがトレビゾンドとビザンツの両帝国間での婚姻政策のためにトレビゾンドに来ていた。これはオスマンの脅威に耐えるためである。
老いたスルタンのムラト2世は1451年に亡くなった。スフランツェスはこのことをトレビゾンドの地で聞いた。というのはトレビゾンド皇帝ヨハネス4世が陽気にこのことを告げたからである。しかし、スフランツェスはムラト2世が友好と平和を望む君主であり、その後継者メフメト2世とは対照的であることを伝え、寧ろムラト2世が亡くなったことは悲しいことであると言った(2)。実際、ムラトの死はライバル達にとってはチャンスに見えたようで、カラマン君侯国はこのとき講和条約を破ってオスマン領に侵入するほどであった(3)。
やがてコンスタンティノープルが征服されてビザンツ帝国が滅亡すると、ヨハネス4世はシノペやカラマン侯国などの、あらゆるトルコ系君侯国やグルジア(ジョージア)・アルメニアなどと同盟を結んだ。この中で注目すべきはアクコユンル朝との婚姻政策である。オスマン帝国と対抗し得るほどの勢力を誇るアクコユンル朝の君主のウズン・ハサンとヨハネス4世の娘のテオドラ、すなわち後のデスピナ・ハトゥン(4)を結婚させることでトレビゾンド帝国の寿命を少々伸ばした(5)。結果としてヨハネス4世が在位している間は命脈を保つことができた。

(1)ジョージ・フィンリーによるとオスマン帝国による最初の攻撃の際のトレビゾンド皇帝はアレクシオス4世としているが、このとき既にアレクシオス4世は暗殺されており、トレビゾンド帝国はヨハネス4世が統治していたので誤りである。
(2)ハリス2013
(3)鈴木1992
(4)フィンリーやデュカンジュはカタリナと表記しているが、これはハトゥンをカタリナと誤読したことによる誤りである。
(5)根津2011
参考文献
ジョナサン・ハリス『ビザンツ帝国の最期』(井上浩一訳、白水社、2013年)
鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書、1992年)
根津由喜夫『図説ビザンツ帝国 刻印された千年の記憶』(河出書房新社、2011年)
Finlay, George. The history of Greece: from its conquest by the crusaders to its conquest by the Turks, and of the empire of Trebizond: 1204-1461. Edinburgh: W. Blackwood, 1851.
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