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『アレッポの歴史』試訳「マリクシャーの死」から「アレッポでのバルキヤールク」まで

「マリクシャーの死」
スルターン・マリクシャーはバグダードでヒジュラ暦485年のシャッワール月第16日に死亡した。アクスンクルは既にアレッポから出ていて、アレッポから使節をそこへ派遣した。そしてそこに知らせが届いたとき、彼は再びアレッポへ戻った。そして僅かな間に彼(マリクシャー)の息子のマフムードのためにフトバを行なった。そしてまことにその後にタージッダウラ・トゥトゥシュのためのフトバが行われた―上記のことである―。
「トゥトゥシュの勝利」
彼はアレッポに戻ったとき、バヌー・キラーブ族のアミール、シブル・イブン・ジャーミゥと彼の息子のムバーラクを捕らえ、二人を城砦の側で逮捕した。タージッダウラはカスィームッダウラとヤギー・スィヤーンとブーザーン(の三人)と文通して、彼(トゥトゥシュ)は彼ら(の三人)を従わせて引き寄せた。その文の内容は彼らが彼と共に兄の街を征服するために行ったとのことで、その王国を得て、彼らは彼にそれについて答えた。彼らは彼に彼らの行政区で説いた。
そして彼は一度486年に行き、カスィームッダウラとヤギー・スィヤーンとブーザーンもそこへ向かった。アクスンクルは彼を信頼し、タージッダウラはラフバとヌサイビン(ニシビス)を征服した。そしてイブラーヒーム・イブン・クライシュは集まってタージッダウラと会見する用意をした。
ダーラー(ヌサイビンとマールディーンの間の山の麓の都市)での二人の兵士は敬虔で、全ての将軍が彼の許へ戻り、アミールのカスィームッダウラは兵士より道徳において極めていて、兵士がイブラーヒームを仲介するまで保ち続けた。そしてアラブ人は止まらず、兵士の残りはついていった。そして彼は彼らの中から近づいていた1010人を殺してしまった。
イブラーヒーム・イブン・クライシュと彼の叔父は捕らえられてその次に彼ら以外の者も捕らえられた。タージッダウラは捕えた者を殺し、子供のように禁忌を犯した。その集団もアラブ女性から同様に殺した。
その後タージッダウラは捕虜に集まるよう命じ、彼らにムハンマド・イブン・シャラフッダウラから彼らに与えた -すでに戦いの前に纏められている- そして彼は彼にヌサイビンを割り当てた。
この事件のあと、恐怖がタージッダウラを苦しませた。彼の兄弟の妻は彼に早く到着するように急かした。そして状態は彼女が彼と結婚することに決定した。そしてイブン・ジャヒールから受け取ったあとでそれを携えてジャズィーラト・イブン・ウマル(ジズレ)へ向かい、タブリーズに着くまで、アレッポの主のカスィームッダウラ・アクスンクルとイマードゥッダウラ・ブーザーンはそこを広げた。そして彼ら二人は仕官するためにバルキヤールクの許へ行った。-彼はこのときレイ近郊にいた-
その原因は、カスィームッダウラとブーザーンの後退と、タージッダウラがヤギー・スィヤーンに接近し、彼が彼に好意を抱かせたことによる。そして返事は次のようである。なぜならば、彼はある者を彼が征服したその土地から近づけず、タージッダウラはディヤール・バクルへ戻った。そして彼はそこ(ディヤール・バクル)を男で満たして、彼はそこからスルジュ(スルチュ)へ戻った。そして彼はそこ(スルジュ)を獲得して、若干の代理人がそこに任じられた。
彼にアクスンクルとブーザーンがスルターン・バルキヤールクの門へ到着したという知らせが届き、彼は彼ら二人(アクスンクルとブーザーン)への敬意を表した。彼ら二人はおじが彼の命令を所有していると認知して、彼ら二人は彼と数名のアミールを殺した。
バルキヤールクの手が広げられ、彼は真っ直ぐに立ち上がった。アクスンクルとブーザーンは彼が二人にタージッダウラの戻るところにの事件を起こさぬように、彼に二人と共に彼らの土地アレッポとルハーとハッラーンへ行くことを告げた。そして、彼とタージッダウラの間に集まって、二人とともにラフバへ行き、彼ら二人とアリー・イブン・シャラフッダウラの間で契約が結ばれた。
「アレッポでのスルターン・バルキヤールク」
アリー・イブン・クライシュはバヌー・ウカイル族の群衆とスルターン・バルキヤールクの兵とカスィームッダウラを引き連れて進んだ。彼らは彼とアレッポまで同行し、アレッポにヒジュラ暦486年に入城した。
ブーザーンはこの地方に行き、彼ら二人と一緒になってからスルターンの許へ戻った。
トゥトゥシュについて言えば、彼はユーフラテス川を渡り、アンティオキアへ行った。そしてそこにヤギー・スィヤーンと共に留まり、そこの相場を釣り上げた。そして彼はこの年のズールカアダ月にダマスクスに行った。
ワッサーブ・イブン・マフムードがバヌー・キラーブ族からの少数の兵士たちと共にいた。アクスンクルはトゥトゥシュがダマスクスへ行った後で、アスフーナー要塞とクッバ要塞での待ち伏せから助け、ワッサーブの集団を捕らえた。
ヒジュラ暦487年に彼はワズィールのアブー・ナスル・ムハンマド・イブン・フサイン・イブン・アン・ナッハースをアル・フーイーの恩寵を盾にカスィームッダウラに対して誹謗中傷したとして捕らえた。彼は彼に対して絞首刑を命じるまで静まらなかった。彼は彼のそばで囚人となり、この年に窒息死した。
ヒジュラ暦487年ラビーウ月第1日、タージッダウラ・トゥトゥシュはダマスクスから出た。彼はアラブから来た高潔な性格の者と共にいて、ヤギー・スィヤーンは兵士たちを連れてハマーの近郊のアンティオキアで彼と会い、彼らは数日間滞在した。そして彼の子供のアル・マリク・リドワーンはヤギー・スィヤーンの娘と結婚した。そして彼(ヤギー・スィヤーン)は彼(トゥトゥシュ)をダマスクスへ戻らせた。
タージッダウラは彼の兵を連れてテル・マンナスを降りていき、そこに数日間滞在した。そして、マウスィル(モースル)の主ケルボガ(カルブーカ)とルハー(エデッサ)の主ブーザーンとラハバ(シリア東部)の主ユースフ・イブン・アバクが2500の騎手を連れてアレッポへアクスンクルを救助するために到着した知らせが届いた。タージッダウラは屋台では対等であった。そして彼はナーウーラへと旅立ち、ワーディーを目指すことに決めた。そこからアンティオキア区へ行き、兵が怒った家畜と若干の農園を獲得した。
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