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試訳「マラーズギルドの会戦」①

今日は大セルジューク朝のスルタン・アルプ・アルスラーンがビザンツを破った日という話を見てイブン・アル・アディームの『アレッポの歴史』の中にマラーズギルドの会戦の記録があるのを思い出し急遽翻訳するに至った。しかし、記事が全部で20段落もあり筆者の語学力不足のため全編を一日では7段落翻訳するのが限界だったため複数回の記事に分けることにした。
今回翻訳する箇所は第14章で、ミルダース朝を紹介する章の流れに位置する。(史料解題の記事参照)
1. 返答: もし彼がアレッポ市で息子を彼の兵たちからなる集団と共に後継者として指名するならば、ビザンツ皇帝のもとを目指して、彼が集団を数えずにアナトリアを統治する機が熟したため行くのを急ぎ、彼はカーリーカラー(現在のエルズルム)へ到着するだろう。スルタンはアーザルバイジャーンへ到着して、一方で彼はビザンツ皇帝の許へ到着してヒラートへの道を奪った。スルタンは兵隊の上層部にいて、兵の集まりは彼より桁外れであり、彼の地へ戻ることを示さなかった。そして彼のワズィール(宰相)のニザームルムルクと彼の妻のアル・ハトゥーンと共に荷物を持ってタブリーズに派遣された。
2. そして彼の兵の選りすぐりの中から15000の騎兵と一人につき一頭の馬と外国出身の者が残り、ビザンツ軍は約30万程で、また、騎兵と男をビザンツ、ルーシ、ハザル、アラン、オグズ(グッズ)、キフジャク(キプチャク)、アブハズのグルジュ(ジョージア)、フランク、アルメニアなど様々な集団から増員した。彼らの中には5000の射手がいて、彼らの中には3万の(アンドロニコス・)ドゥーカスとqwms(コムネノス?)とビザンツ貴族の先行者がいた。
3. そしてスルタンは有害な集団を集めるために猶予を与え、彼の選りすぐりの集団に置いて言った「私は自身がアッラーの許にいると見なしている。証言によって繁栄するか、あるいは【アッラーは、かれに協力する者を助けられる】(巡礼章40)勝利か(のどちらかだ)。」そして彼はビザンツ軍に兵を整えて一直線に進んだ。
4. ビザンツ皇帝(ロマノス4世)は勇気ある装甲兵2万人の先陣を先に行かせた。彼が持っていた彼らの十字架は最も高潔だった。そして彼がヒラートに到着すると、(街を)略奪し、捕虜にした。そしてヒラートの兵はそこから出た。彼が持っていた「外のトルコ人の箱」(sunduq 'l-Turkī 'l-Khālij)はアレッポの街へ送られた。それはヒジュラ暦462年のことで、ー先に我々が書いたようにー箱は彼を破壊し、彼を捕虜にして、スルタンの到着を確認した。そして彼(スルタン)の嘲笑を受けるよう命じた。
5. 彼はニザームルムルクへ彼の仲間であるところの強化を急がせ、彼に急いで征服のための使者を『平和の館』へ派遣するように命じた。そしてビザンツ兵が混ざり合い、彼らはヒラートを襲撃し、そこを取り囲んだ。(ビザンツの)皇帝はマラズギルド(本文ではManāzkird)を襲い、そこを彼の軍がその地(マラーズギルド)を所有するという屈辱を恐れて彼に安全に手渡した。ヒジュラ暦463年のズールカアダ月第4日火曜日のことであった。
6. そのとき、水曜日にマラーズギルドの民を進め、彼らに参加するために自分自身で脱出した。彼はその集団の中にいて、スルタンの兵が到着するのと遭遇し、目と目が合った。ムスリムたちは一人の男の攻撃を担当して、彼らをその後続者に返した。
7. マラーズギルドの民は彼らの間に急いで忍び込み、ビザンツは彼らのうちの数名を殺した。残りの者は助けられて、ビザンツは彼らが通ってきた道を去り、彼らの皇帝は戻り、ヒラートとマラーズギルドの間の野営地に泊まった。彼らは厳しく、ひどく不安な一夜を過ごした。
*クルアーンは三田了一訳を引用した。
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