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イブン・アスィール『完史』における古代ペルシア伝承

大塚修先生の『普遍史の変貌』を読んで、歴史書における初期の時代の伝承について関心を抱いた。中でも、アラビア語史料の中での古代ペルシア伝承について心惹かれたため、著名なアラビア語史料の一部を訳そうと考えた。このうち、タバリーはアラジン3世氏によるブログに翻訳があるため、今回は使用しなかった。代わりに、イブン・アスィール『完史』の中における古代ペルシアの記述の一部分を翻訳しようと思う。というのも、イブン・アスィールの記述の前半の方はタバリーの『預言者と諸王の歴史』を再構成したものであると知り、タバリーの史書とどのように違うのかを知りたくなったからである。翻訳した箇所は、折角翻訳するんだからと需要を考えて、アーラシュが登場するマヌーチェフル王の治世の部分を翻訳する。翻訳する上で使用した史料はベイルート版とWikisource版によるものである。
以下、試訳を掲載する。
ヒシャーム・イブン・アル・カルビー(註1)曰く、「トゥージとサルムが両者の兄弟であるイーラジの後に300年にわたり地を治めた。そしてマヌージフル(Manūjihr=マヌーチェフル)が120年にわたり治めた。そしてテュルクのトゥージの子が彼(マヌージフル)を襲撃し、80年間長となった。その後に彼を追い払い、28年間治めた。」と。
マヌージフルは公正かつ善業をなす王であった。彼は第一に塹壕中の塹壕から現れ、戦争の道具を集めてデフカーン(註2)たちを置き、全ての村落にデフカーンを委任した。そして(マヌージフルは)その構成員たちに服従を命じた。(ヒシャーム)曰く、「ムーサーは彼の治世の60年に現れた。」と。ヒシャーム以外の者は言った「王は我々がテュルクの地(註3)に行ったとき、彼を見つけるところの血統をイーラジ・イブン・アファリードゥーンに求め、そして彼(マヌージフル)はトゥージ・イブン・アファリードゥーンと彼の兄弟であるサルムを殺した。そして、アフラースィヤーブ・イブン・フシャンジ・ルスタム・イブン・トゥルク、即ちテュルク人はこの人の許へ遡るが、トゥージ・イブン・アファリードゥーンの裔であった。マヌージフルはトゥージが彼を殺した後に60年間戦い、タバリスターンで彼を包囲した。」と。両者は両者が治める間へマヌージフルの腹心(aṣḥāb Manūjihr)、イーラシー(Īrashī=アーラシュ)という名の男が矢を発射することで境界を設けることで同意した。彼(イーラシー)は抜き出て優れた投擲手であった。そして矢をタバリスターンから射て、バルフ川の側に落ちた。川はトゥージの子トゥルクとマヌージフルの支配の境界となった。
以上

1.ヒシャーム・イブン・アル・カルビー……アッバース朝期の系譜学者であり、歴史家である。140もの著書を書いたが、殆どが散逸してしまった(Britannica 1911)。イブン・アル・カルビーの著作は多くの歴史家に引用された。
2.デフカーン……ササン朝期に小規模土地所有者、イスラーム時代には地方支配者を刺した(Iranica 1911)
3.billād al-turk「テュルクの地」……人名を訳す場合はトゥルクと訳した。
タバリーの記録と比較すると、①人名の一部が省略されている②名前の綴りがタバリーとイブン・アスィールで異なる(マヌージフルとマヌーシフル等)③イブン・アスィールの記録の方ではアリシュシバティールという名が出てこないなどの差異が見られた。
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